安楽死 死ぬ権利とは

加護生存の日本において、やっと死ぬ権利、安楽死が考えられるようになった。

僕がまだ若かったとき、若くかわいい女の先生は、何がなんでも生存、どんな状態でも生きていてよかったねーといってあげるんだ、そういうもんだと天使のようなその先生は言っていた。

自分が一生懸命にやっていることを、死にたい人への冒涜とは思いたくなかったんだろう、

痛い、苦しい、鼻から肺に入れられるチューブの苦しさ、ウンコが腸でつまってのた打ち回った

苦しさを知っている人間としては、なんで悪いことすらしていないのに、こんな無理やり生かされて苦しい思いをしなければいけないの?

学校の体育はいつも見学、女のこに重いものを持ってあげてかっこつけることもできない体

重度の障害が残り先の見えない絶望。

そういった思いと、必死に何十時間も手術してくれて働きすぎて若くして死んでしまった僕の主治医の先生の思い。

いろんなことを思ったけども、延命治療はいらない、胃ろうはいらない、最後は痛みだけとって

寿命で死にたいと思っていた、あの日までは。

2014年9月5日混乱の真っただ中でたまちゃんがもうだめだと聞かされた日。

たまちゃんとは何度ももしもの時は下手にいかすんじゃないぞと約束していた。

病院はとうまわしに、手術をしての植物状態での延命もそのままの死の受け入れもできるようなことを言っていたように思った。

最高よくなっても胃ろうで意識なし、意識ありでも何もしゃべれない、苦しい思いをさせるだけという選択は僕にはできなかった。

でも、そんあ状態でも僕は生きていてほしかった。何か月でも少しでも長く一緒にいてほしかった。

だから、死ぬ権利というのは本人だけのものじゃないと、死んだあとの残されたものたちの権利のほうが強いんだと今になって思う。

だって残されたものたちは、本人が死んだあと生涯寂しいんだから。

そんな人もいないひとりぼっちの人は安らかに眠らせてあげてもいいんじゃないかと思うようになった。

家族が本人が望まないのに延命することを責められないね。

自分が死ぬことの何倍もつらかったから。

 

 

 

 

 

 

 

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